歴史を感じられるものが残されているという、幸せ。
「川越街道」が、「川越街道」と呼ばれるようになったのは明治時代以降の話、だそうだ。それ以前は「川越往還」「川越道中」などと呼ばれていたらしい。この街道の4番目の宿が、現在の朝霞市にあった膝折宿、5番目が現在の新座市の大和田宿、そして6番目が現在のふじみ野市にある大井宿である。
この街道を整備したのは川越藩初代藩主の松平信綱で、中山道の脇街道という位置づけだったそうだ。その信綱が没後、祀られたのが新座市の平林寺。信綱は、この地の農業を盛んにさせた野火止用水の整備工事や新河岸川の改修工事の責任者でもあった。それだけの功績者が、広い平林寺に祀られるのは当然のことかもしれない。
野火止用水は戦後、本来の役目を終え、撤去される計画もあったようだ。しかし地域住民の人たちからが存続運動を起こし、今も水路として活用されている。合理化だけでは全ておさまるものではない、ということを体現した地域住民の人たちのおかげで、この地の歴史が垣間見える「遺産」が残され、私たちはその歴史を感じることができるのだ。
膝折宿の本陣は現在の膝折郵便局のあたりだったそうだが、脇本陣と呼ばれる本陣には泊まれなかった家臣たちが泊まったという宿が、現在もその姿を残したままになっている。国道254号線、現在の川越街道から少し道を外れた旧川越街道沿いにあるのだが、その表札には「高麗」と書かれているという。これはさらに古い時代、平安の頃に大陸からの渡来人たちがこの地に住まわされた名残り、という。「新座」という地名も、もとは「新羅」から来ているというから、全てはつながってくる。
膝折宿のある場所から、急な坂道が続く。その坂を「稼ぎ坂」と呼ぶらしい。それは江戸の頃、手押し車でなかなか坂を登れない人たちから小銭をいただき、坂を登るのを手伝ってあげる人たちがいたことが由来するという。そんな坂の名称にすら、歴史の一端を感じさせるものがこのエリアにはある。
話は前後するが、信綱の後に川越藩主を務めた柳沢吉保は元禄期に、現在の三芳町上富と所沢市中富・下富を開拓し、「三富新田」と呼ばれる地域として農作物増産政策を進めた。その際の検地によって割り振られた理路整然とした地割と景観は現在も残され、旧跡として埼玉県指定文化財に指定されている。
このエリアに残る歴史の一端を、列記してみた。そんな歴史の息吹を、そのままに感じさせてくれるものがたくさん残っていることに、今を生きる私たちは心から感謝するべきだと思うが、いかがだろうか。
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